自分を大切にするためのキッカケが向こうからやってくる

 

 

 

おばあちゃんに言われていました。

 

『結婚したら我慢せんといかんことばっかりやから、結婚するまでに贅沢しといたらええ。』

 

って。

 

自分は、結婚しても好き放題しまくりのおばあちゃん。

 

(おばあちゃんは特別ラッキーな旦那と結婚しただけだとか。)

 

『あんたは男兄弟がいないからおとんぼすぎるんじゃ』

 

(おとんぼは方言で、末っ子という意味ではなく、苛め抜かれてないからほんわかしていて擦れてなくてドンクサイという意味。)

 

百万回そのようなことは言われました。

 

世の中甘くないのかな。

 

結婚したら大変なのかな。

 

 

 

 

 

月日は流れ、

 

 

 

 

 

結婚してから、

 

無理をする生活が始まりました。

 

いい子ちゃんぶって、頼まれてもないのに、苦しむ生活。

 

例えるなら、真夏にニット帽を被って、服の上にカッパを着て、日差しのした、

 

暑いアスファルトの上をランニングしているような生活です。

 

いつでも、水着に着替えてプールで遊べば涼しかったのに・・・。

 

 

 

しかし、

 

時々、自分を大切にするためのキッカケっちゅーもんが向こうからやってくるんです。

 

一度目は、めちゃくちゃお人好しで優しくて高収入で気が合う人に求婚されたこと。

(いやいや、わたし、結婚してるから不倫になりますやん。)

 

なんか、超マジメだし、離婚する方が損な気がして、その魚は逃しました。

 

そして、

 

二度目は、心身の爆発。体中が痛くて、イライラして、尋常ではない状態。

 

もう、ハリセンで叩いてたんでしょうね。無意識がわたしのことを。

 

『おーい、おーい』

 

って気づくまで。

 

『治らない病気にはなりたくない。』

 

そう思い、心を入れ替えて、やっと、方向転換することができました。

 

とても、

 

自分が嫌いになってた。

 

無理してた。

 

罪悪感や、不安や、嫉妬や・・・、マイナスの感情の壺の蓋が空いて、爆発です。

 

わたしの場合、

 

1番目のキッカケで、優しい相手に再婚で乗り換えても、あまり変わってなかったかもしれません。

 

むしろ、優しい相手に捨てられないように、前よりも努力してしまっていたかもしれません。

 

単純に、

 

自分を好きになること、

 

自分を楽にすること、

 

人にけなされても、反省しないで、『ほっとけ、くそー』と思えること、

 

常識にとらわれないこと、

 

自分を大切にすること、

 

親を許すこと(これは、上手く言いにくい。上辺でリスペクトする的な話ではなく、親のことがある意味どうでもよくなること。親をほっとけること。)

 

そんな、今までとは違う方向に角度を変えました。

 

長年の積み重ねで、少しでも方向がずれたら、進んで行く道、出会う人、通過点が変わってきます。

 

違和感があると、

 

魂が、『ちゃう、ちゃう、ちゃーーーーーーう!!!!!!!』って、

 

叫んで、ずれが治るまで叫んでハリセンで叩いてくる(心身の体調が悪くなる)。

 

親友も、

 

結婚したら海外旅行に行けなくなるからと、独身時代海外旅行に行きまくり、

 

出産したら海外旅行に行けなくなるからと、結婚してから海外旅行に行きまくり、

 

結局、出産しても海外旅行に行っている。

 

という、やはり、

 

『いや、もうあんたなんかただの使用人になるんやから、自分を大切にしたらアカンよ。』

 

と言われても、長続きしない。

 

でも、不思議なことは、

 

『自分を押し殺して長年家族に仕えてきました。』

 

という人で、けっこう長生きして体が丈夫で元気な人がいること。

 

心身共に無理しても、壊れない人もいるもんだなー。と、思うと同時に、

 

わたしが、もっと奥のことをわかってないだけなのかな?と、思ったり。

自己中心的生き方で病気が治る仕組み

 

 

 

はちゃめちゃな小さい子どもの頃は、

 

社会に適応して生きるために、

 

順番を守ったり、譲り合うことを学ぶ必要があります。

 

だから、

 

自己中心的ではダメという言い方になるかもしれませんが、

 

社会のルールを守った上で、

 

あえて、

 

自己中心的に生きるというのは、とても身体にいいことであると思います。

 

それは、自律神経と免疫機能への影響という観点からです。

 

『自分が何者かということをはっきりさせて、外部の悪さに対して、適切に対抗する。』

 

それが免疫機能の働きだとしたら、

 

その免疫機能が、今は働く時、休む時、順番に出たり入ったり、

 

そのリズムがうまく行くということが自律神経の働きで、更には、ホルモンも分泌されたり制御されたりしています。

 

つまり、

 

自己中心的であると、自分が何者かよくわかり、敵や不都合が何かわかるので、

 

上手く自律神経、免疫機能、ホルモンが過不足なく仕事をしてくれるようになるのだと解釈しています。

 

癌が自然治癒したという人の中には、

 

自己中な性格になることをすすめている人が多いのは、そういうからくりなんだと思います。

 

他者の利益のために頑張るようになると、

 

自分のせいで他人に不都合があると、自分で自分を責める。

 

とっても自分の身体に悪いことですよね。

 

免疫機能が自分を攻撃する状態と同じです。

 

免疫機能は、本来、自分の身体を守るためにある軍隊です。

 

他人を守るためにある軍隊ではありません。

 

間違っても、自分を攻撃するなんてナンセンス!!!

 

特に、お母さんになった人は、

 

自分の子どもは自分以上にかわいい存在となることが多く、

 

自分を犠牲にしても子どもを守ろうとしたり・・・。

 

そんな時に、更に子どものためだと、

 

人に嫌われることを恐れ、

 

人にいいように、いいように機嫌を取っていると、

 

・・・・・・。

 

ブッブー×  

 

 

おばあちゃん行脚

 

 

おばあちゃんとの想い出。

 

とてもおしゃれで、若作りで元気だったおばあちゃん。

 

一緒に出掛けると、

 

道中、知り合いでも見知らぬ人でも長話をする。

 

バスから降りて、バス停から家に帰る間にも、

 

庭で作業をしている知り合いのおばちゃんに話しかけて、

 

孫の自慢

 

人の悪口

 

褒めてもらう

 

を長々として、先に進む。

 

私が思うには、

 

なんと図々しく厚かましい存在か。

 

たぶん、近所の人にもかなり迷惑がられていたんだろうなーと、今となっては思います。

 

一方、お世話好きだったので、師匠のように慕う人が多かったという面もあり、

 

でも、話しは長いし押しつけがましいし、人の悪口も半端ないから、

 

付き合いきれないと思い、距離を置こうと頑張っていた人も多いと思います。

 

わたしが、

 

『やってしまったかな?』って、ちょっとしたことで、クヨクヨしていても、

 

「上等よ。」「あんたはかわいい。」「あんたは特別。」「あんたは賢い。」

 

と言って、姫のように扱ってくれました。

 

何も自慢するとこなんてない、平凡な子だったのに、

 

話を盛って、将来こうなるという、なってもない展望を(例えば、この子は医者にするんだとか)人に自慢しまくり、

 

わたしがちょっと人に迷惑をかけるようなことをしても、

 

OK、OK、OK、OKを出しまくりでした。

 

人に迷惑をかけるのはOKで、

 

でも、人に認められる人になるように、

 

(成功的観点から)失敗しないように、呪文のように、こうなって欲しい、

 

こうあるべきということをいい続けていました。

 

進学すべき学校、結婚相手の条件、手に職をつけておくべき(いつでも稼げる)、

 

ふってもふられるな。でも、相手を不幸にしたら罰が当たるから、自分が損するくらいで男女が別れるほうが、得。とにかく、モテろぉぉぉぉ~!!!!!!!!!

家の中はキレイにしておけ、余分な荷物は持つな。捨てろ。

 

それが、ばあちゃん哲学。

 

今考えたら、呪いがかかっておったわい。

 

その呪いも解いてよい時がきたようです。

 

自分にあった考え方で生きていいと思う。

お母さんを困らせちゃいけないと思ったから

 

 

 

人に迷惑をかけられない、自己完結病にかかったのは、

 

幼少期のお母さんに原因がある説に照らし合わせてみると、

 

『はぁー・・・、あつかんしいんよ。もういい加減にして!』

 

が、口癖で、手間をかけたくなかった母。

 

そんな母に対して、

 

『色々と迷惑をかけて申し訳なかったな。もうこれ以上は迷惑をかけないで、できるだけ親孝行をしたい。』

 

と、思っているから、

 

その母と言うフィルターを通して、

 

人がすごく全てを面倒くさがっているように感じ、

 

何かお願いをしたり、お手数をかけると気分を害させてしまうように感じ、

 

母にさんざん迷惑をかけて悲しませたから、

 

これ以上、人に迷惑をかけることや迷惑そうな人の顔を見るのは耐えられないと思う。

 

っていう深層心理なのかな。

 

全ては、『お母さんが笑顔になるにはどうすればいいかな?』みたいな深層心理から考え方の癖がきているという説が正しいとすれば。

 

実際は、お世話好きな人や、迷惑かけてかけてタイプの人や、

 

手間かけてめんどいことを楽しいと思うタイプの人や、

 

人の笑顔を見るためなら、そんな苦労もいとわない人や、

 

色々いるはずなのに。

 

 

人に迷惑をかけない美しさ

 

 

なるべく人に迷惑をかけない人って、

 

美しい所作なんです。

 

ファミレスでも、帰る前に、ウェイトレスさんが片づけやすいように、

 

ささーっと食器を取りやすい位置にまとめて、机に汚れがあれば、ちょちょっと拭く。

 

やりすぎない程度に。

 

例えば、純粋な子どもから見たら、

 

食い散らかしたまま帰るおばさんより、

 

そんな女性がかっこいいし、

 

彼氏とデートとなると、汚く食べ散らかして帰るなんてできっこない。

 

しかし、

 

しかしですね、

 

なるべく人に迷惑をかけない、お手数をかけさせない、

 

が熟練しすぎてしまったり、

 

器用で何でもできるようになると、

 

人にお手数をかけさせられなくなる。

 

迷惑をかけれなくなる。

 

更には、頼まれてもないのに、他人が気分良くなるような言動までプレゼントしてしまう。

 

それって、ちょっと困ったことかも。

 

 

 

 

・・・それが困ったことかも。って思う人ってどんくらいいるだろう。

 

 

 

 

そんな時は、迷惑かけようキャンペーンをするくらいでちょうどいい。

 

あえて、ファミレスの食器を、いじらないで食べ終わったまま帰る。

 

レジで、「ごちそうさま」と言わない。

 

帰り道によったコンビニのレジでも、「ありがとう」と言わない。

 

無駄に笑わない。

 

そんな日があってもよくないですか。

 

『なんか、すっごい社会がよくなるための善行を行ってる。頼まれてもないのに。』

 

って、ある日、気が付いて、その善行も、

 

過去に、社会や親から刷り込まれた、単なるわたしの思い込み。

 

そして、目の前にいる相手が、気分がいい方が良いに決まっているという思い込み。

 

本来は、人は不機嫌でいる権利もあるはずなのに。

 

不機嫌な人を機嫌よくするのは善行とは限らない。

 

『みんながハッピーになればいいのに。』

 

は、エゴなのではないか。

 

ハッピーでも、アンハッピーでも、そんなの本人の自由なのではないか。

 

『アンハッピーな人をハッピーに変えられるわたし、すごい。モテる。』

 

そんな風に、社会でモテるように、刷り込まれた通りの善行をし、

 

良い、悪いを勝手に決めてないか。

 

 

 

 

だから、わたしは、

 

所作が美しくなくてもいい、モテなくてもいい。

 

無愛想でもいい。

 

気が利かなくてもいい。

 

人に迷惑をかけてもいい。

 

人にお手数をかけてもいい。

 

だから、気になることは聞こうと思うようになったし、

 

変えて欲しいことはなるべく希望を言ってみようと思うし、

 

嫌なことをされたら、嫌だと言ってみようと思うようになった。

 

モテなくてもね。

 

いいひとでないと思われてもね。

 

行き過ぎた素敵な生き方は、

 

もはや自分にとって素敵ではなくなってきた。

免疫の問題

 

 

色んな病気があるけれど、

 

免疫が正常に働いていれば、

 

わりと健やかに過ごせるもの。

 

免疫に異常が起こって自分を攻撃するようになると、

 

なかなか治せない病気になるということがわかってきた。

 

人に対しても、免疫不全、もしくは免疫が迷っている状態になってしまっていて、

 

本当に勿体ないと、自分で思う。

 

なにもされてないのに、

 

安全なのに、

 

何かされる、何かされたらどうしよう・・・。

 

という過剰な不安やおそれで、

 

準備しすぎて、その準備が自分への攻撃になってしまっている。

 

その免疫の観点からみると、中学生の反抗期は、本当に素晴らしいものだと思う。

 

『お前のようなものは価値がない。』

 

『頑張りが足りない。』

 

『皆と同じことをせよ。』

 

という、むかつくことを先生が言ってきた時に、

 

『うっせー、ばばぁ』

 

と、自分の口で言えること。

 

言えることによって、余計な不安や恐れがなくなる。

 

先生に何か言われたり、悪く思われて内申書に不都合なことを書かれないか、

 

友達に仲間外れにされないか、

 

気にしてばかりいると、

 

何もやらかしてなくても、何もされてなくても、

 

何か失言をしてしまうのではないか、と、不安と恐れで自分が辛くなってしまう。

 

友達とも健全なケンカができて、

 

先生にも自分が嫌な気持ちを伝えられるって、素晴らしい。

 

今のわたしは、免疫が完全に自分を攻撃している状態ではなくて、

 

免疫が迷ってしまうことがある状態。

 

調子が悪いと、対人不安や恐れに負けて気持ち悪くなる。

 

敵か味方か、危険か安全かわからなくなる。

 

すなわち、自分が何者か、よくわからなくなることがある。

 

自分より弱い人に当たるとか、

 

自分の胸にしまっておくのではなく、

 

不安や恐れがあれば、自分の相手に言葉で伝えたり、怒ること。

 

それと、失敗の経験から、

 

イライラをため込んで、突然、見ず知らずの人の心無い言動にブチギレないこと。

 

気を付けております。

跳び道具『薬より揺すりが効く』

 

 

そもそも、揺すりの効果に気付くためのヒントは、

 

深夜番組の対談での福岡伸一さんの言葉だったのですが・・・・・・。

 

『何かに効くという薬を飲むより体を揺すった方がいい状態に戻るのでは・・・?』

 

的なことを言われていました。

 

福岡伸一さんの動的平衡という考え方は、『坂道を転がり落ちるわっかで表現していて、古いものが壊れて新しい物が構築されていくから、坂を転がり落ちないですんでいて、しかも、壊れる方が構築より、少し多いから、坂を落ちない。』ということ。)

 

動的平衡バランスがどっかでおかしくなった時、薬より、すこし揺すってやる方がいいのでは・・・・・・。

 

!!!!!!!!!

 

それを聞いてひらめきました。

 

箱に入った砂も、瓶の砂も、偏っている時、激しく振ってしまうと、更に乱れますが、

 

少しだけ揺すってやると、平らになりますよねー。

 

ははーん。

 

わたしの身体も、少し揺するとよくなるかもしれない。

 

そもそも、砂が平らな方が何がいいのかは、はっきりとはイメージできませんが、

 

わたしは、

 

前後左右上下、身体のバランス、

 

自律神経、そんな感じにイメージしています。

 

その時に、あわよくば、よくないエネルギーなども落とせれば。

 

よくない言葉も吐き出せれば。

 

よくなる。

 

考えた結果、プールでクロール。

 

めっちゃ、いいですよ。

 

プールで、たまたま、おばちゃんに意地悪なことを言われました。

 

ゆっくり泳ぐ人用の第3コースに、

 

そのおばちゃんと二人で泳いでいて、

 

わたしの方が後にいったのですが、

 

速く泳ぐ人用の第5コースが空いていて、

 

おばちゃん『早く第5コースに行きなさい。今がチャンスよ。行かないと損。』

 

わたし『いや、すごく遅いので、ゆっくりコースを選択しています。』

 

おばちゃん『いいんよ。いいんよ。行かないと損。さあ、行った行った。』

 

と、追い出されて、

 

その狡さと図々しさに腹が立って、言い返せない自分も許せない。

 

クロールしながら、

 

『糞ババア!!!〇×△□!!!!』

 

ちょっと書けないようなことを水中でぶくぶく叫びながらクロールしました。

 

人に対して、小さなことでもストレスが感じやすい今、

 

プールに行くだけ、そんなおばちゃんさえストレスに感じてしまう。

 

更に、おばちゃんの見分けがつかないので、どのおばちゃんが言ったかわからなくなり、

 

他のおばちゃんまで意地悪に見えてしまう。

 

プール出るまでむすっとしていました。

 

でも、その後、すごく食欲が出て、ステーキを食べた。

 

なんか、よくなった。

 

いや、よくないのか?

 

いや、よい。

 

ちなみに、たぶん、歌うことにも揺すりの効果があります。

 

歌は空気の振動ですから、感動もしますから、

 

歌うのは、とても揺すりになります。

 

そして、

 

食欲、睡眠欲は、わかりやすく満たしやすいですが、

 

性欲は自分でも恥ずかしくて抑圧しがちです。

 

そこで、

 

クロールや、歌うことで、抑圧されている性欲も発散できるかもしれません。

 

都会を中心にマラソンブームなのも、

 

無意識に抑圧された性欲(オーガズムにたいする欲求?)を発散するのにちょうどいい揺らしなのかもしれません。

 

そう考えると、

 

身体にとっての揺らしというのは、

 

男性の射精や女性のオーガズムというのが、

 

そもそもの原点と言えそうです。

 

それが満たしにくい時、自分でもわからない時は、

 

余っている余分なエネルギーを、

 

揺らしすぎない程度に、

 

ジョギングしたり、マラソンしたり、歌ったりするとよいと思います。

 

汗を出したり、声を出したり、発散です。