被害妄想の治し方がわかりました。

 

 

メンタルを壊してからというもの、

 

ショッピングセンターに行っても、

 

知り合いの人に会って、ちょっと話すのも、店員さんと関わるのも苦手になっていました。

 

話して、『何か悪い気させなかったかなー?』とか、

 

すれ違ったのに知り合いに無視されたとか、話しが長い人につかまりたくないとか、

 

思っていた。

 

何もされていないのに、人に何かされそうな気がする悪い予感と、気持ちの悪さに悩まされていました。

 

こちらは悪気がないのに、悪い風に思われていないか・・・。

 

そのメカニズムはこうでした。

 

過剰反応。

 

わたしは花粉症はないのですが、ないからこそ、

 

花粉って、なんともないって思います。

 

もし、『花粉が飛んでる。花粉症になっちゃう。』と、過敏になり、

 

『花粉症』という言葉を聞いただけでも、

 

鼻がムズムズ、目が痒く、くしゃみが止まらなくなるとしたら、

 

それは、免疫の誤作動。

 

何もされてないのに、『何か悪いことが起こる、大変だ!!!!!!』

 

と、色んな工夫をし始めて、その工夫が症状となり、自分を攻撃している。

 

まさに、

 

人付き合いにおいて、今、わたしはそんな感じです。

 

たしかに、

 

何のためらいもなく、自分の気に入らないことをはっきりと強く言う人はいます。

 

そして、わたしは、そういう人に対して、過剰反応をし、

 

更には、そんな変な人じゃない人に対しても、

 

変なこと言ってくるんじゃないか、

 

変な目で見てくるんじゃないか、

 

と、不安になってしまう。

 

だから、どんなに身近で味方で身内でも、

 

過敏になればなるほど、

 

過剰に反応して、

 

何もされてなくても、自分を傷つけてしまっています。

 

だから、

 

対処法は、

 

『そもそも何でもないし、何かあっても、言い返せばいいやん。口ついてるやん。』

 

です。

 

血流が悪くなる理由

 

 

 

すごく体調が悪くなると、血流が悪くなることが原因で起こる症状がたくさん出ていたのですが、何でか、わかってきました。

 

血流を悪くして、血液中の悪いものを炎症を起こさせて出すため?

 

体調を悪くさせるため?

 

それは、『おいおい、そんな生き方じゃ、進みにくいよ。ゴミが溜まっているよ。』

 

と、体が送ってくるサイン。

 

 

お母さんの嫌だったこと。

 

 

子どもの頃、

 

汚い部屋が嫌いでした。

 

母は物が捨てられないから家中が物に溢れていて、整頓できないことが嫌でした。

 

それを父が責め、おばあさんが責めるのが嫌でした。

 

おばあさん家がすっごくキレイで過ごしやすいため、

 

本当は、余計なことを言うおばあさんが悪かったのかもしれないのに、

 

整頓できない母は悪いと思っていました。

 

整頓しようと思って、あきらかに不要な物を勝手に捨てたり、

 

引き出しの中身を全部出すと、

 

ものすごく怒られて、それもまた嫌だった。

 

友達を呼んでも、リビングまで通すことに勇気がいるし、

 

コップはきれいに洗えてないから、確認して洗い直してから友だちに出さないといけないし、

 

友達を呼んでも、片付いていない家に上がって欲しくないから不機嫌だし、

 

結婚するかも?という相手を家に呼ぼうかと言う頃には、

 

本格的に迷惑そうにして、

 

『おばあさん家に呼ばない?』

 

なんて、言いだす始末。

 

どんだけ、わたしのことが面倒くさいんだろう。

 

わたしは、ちょっとしたことも母に迷惑かけてるんだろう。

 

とにかく、そんな感じ。

 

かといって、

 

自分で何でもしていたかというと、

 

全て母任せでした。

 

母のせいにすると、

 

『文句を言うだけで、お手伝いをさせなかった。お手伝いの仕組みを作らなかった。』

 

ということになり、

 

自分に原因があるとすれば、

 

家を出るまでは、

 

極度に面倒くさがり屋(仕事以外)でした。

 

風呂に入るのも面倒くさいし、

 

自分で作るくらいならご飯は食べない性格でした。

 

結婚してから、毎日、ちゃんとお風呂に入るし、湯船で熟睡しないようになりました。

 

自分のことはさておき、

 

母の面倒くさがり屋の部分が嫌でした。

やたら、自分の感情ややりたいことを捨てて育ててくれた感じはするのですが・・・。

 

思い出しにくいけど、

 

ありがたいと思う裏側に、嫌だったことがあるんですよね。

 

でも、

 

お母さん、好き。ありがとう。

 

になって、忘れてしまっていて、

 

でも、裏の部分が生き辛い心の癖を作っている。

 

 

夜の過ごし方。

 

 

とても重要な気づきがありました。

 

夜、交感神経を高ぶらせてしまう癖があること。

 

夕方、旦那が帰ってくる。

 

それは、ある種のストレスなのですが、

 

もしかしたら、お話できる相手が帰ってきてうれしいという気持ちもあるのかもしれません。(このことが第一の気づき。お世話をしなければならないからストレス一色だと思っていました。)

 

そして、

 

食事の準備や後片付け、洗濯に整頓・・・、

 

たまに、スイッチが入って、やたら頑張ってしまいます。

 

その理由がわかりました。

 

頑張っていることを認めて欲しかった。

 

こんなに頑張ってるのに・・・。

 

『頑張っているから、わたし、価値があるよね。』

 

という、価値アピールもあったと思います。

 

そして、旦那が脱力してくつろいでいると、腹が立っていました。

 

しかし、

 

頑張っていることを見せたいからといって、一日の終わりの時間に頑張っていたら、

 

副交感神経は出てきませんー。

 

自律神経が乱れます。

 

もはや、夕食後の食器洗いも、惰性で、眠くなりながらやった方がいいのだと思います。

 

几帳面なこと

 

完璧なこと

 

きれい好きなこと

 

気が効くこと

 

それが、子どもの頃から、年上の人を見て、上記のような条件が備わっている女性が素敵な人だと思っていたけれど、

 

それは、張り切って夜頑張るのは、はっきり言って損です。

 

自律神経のルールから言えば、

 

午前中、家族が見てなくても、一生懸命動いておくことが、

 

夜ぐっすり眠る秘訣であり、

 

夜は、ゆっくりと過ごす方が身体に得です。

 

誰も見ていない午前中にのんびりしておいて、

 

家族が見ている夜にこれ見よがしに頑張るのは自分を壊します。

 

午前中のルーティーンをいい程度の負荷で頑張ることは、健康の秘訣かも。

 

『そんなにのんびりしていていいなー』

 

と、言われるのを恐れないで、頑張ってるアピールはやめます。

痛みに弱くなった

 

 

ジョギングが好きで、

 

何時間も走って、足が動かなくなるまで走るのが好きでした。

 

どこまで苦しみに耐えられるか挑戦するのが好きでした。

 

苦しみ以外にも痛みに強いことが自慢でした。

 

ところが、

 

最近、めっきり痛みに弱い。

 

いいことだと思っています。

 

心が痛い時も、

 

『なんか、心が痛いなー。なんでかなぁ。』

 

と、胸に手を置いてみる。

 

ロキソニン飲んで、更に頑張っていた頃とは正反対。

 

痛みがあるから、自分が違う方向(自分が生き辛い方向)に進んでいることに気付ける。

 

休んで、自分が喜ぶことをして、

 

もし、胸の内に隠したままになっている悲しみとか苦しみがあれば、

 

少し思い出して、地球にアースする。

 

怒りたいのに怒ってないことがあれば、怒る。

 

泣きたいのに泣けてないことがあれば、泣く。

 

怒ってるのに笑っていないか、

 

泣きたいのに笑っていないか、

 

無理に笑わなくていいというか、無理して笑わない方がいいんだよ。

 

 

退屈な子ども時代

 

 

子どもの頃を思い出して、

 

よくあるような悲惨なトラウマは抜きにして、

 

とにかく、

 

『退屈だなー』と感じてたまらなかった蒸し暑い夏休み

 

そのイメージが強烈すぎて、

 

今、一番、思い出すのが、

 

強烈に退屈でつまらない

 

と感じたことです。

 

母は、あまり気にしないで、部屋の隅っこで内職をしていました。

 

怒りではないのですが、

 

退屈なことが嫌だったので、

 

娘に退屈な思いをさせるのが嫌で、

 

幼稚園に入園するまでも、自分の限界を超えて、

 

色々と連れ歩いたものです。

 

そして、夏休みが怖い・・・。

 

娘に退屈な思いをさせることが怖い・・・。

 

と、思っていたのですが、

 

ふと、思いました。

 

大人と子どもの時間の感覚がとても違う。

 

大人の1年に対して、子どもの1年は長いといいます。

 

小学6年生の頃、その話を聞いて、納得したことを覚えていますが、

 

今となっては、子どもの頃に感じていた時間の感覚を忘れてしまって、比較できません。

 

とにかく、子どもは、1時間退屈なだけでも、とても退屈なのではないでしょうか。

 

大人は、1時間くらい、家でぼーっとしていても平気だし、

 

『昼寝でもしよーっかなー』と思える。

 

でも、子どもは常に、楽しいことをしたい。

 

そして、力を使い果たしたら、お昼寝。

 

今、楽しいことをしたいし、力の限り楽しむ。

 

そんな感じなのでしょう。

 

だから、夏休み、ラジオ体操から帰ってきて、

 

教育番組を見て子供向けの番組が終わってから、昼ごはんまでが退屈でたまらなかった。

 

親からしてみれば、

 

『その辺にあるおもちゃで適当に遊んどけよ』

 

と、思ってしまいますけどね。

 

子どもの時は、おばあちゃんやおばさんちに遊びに行くと、

 

お菓子作りをさせてくれたり、工作、畑仕事、

 

色々させてくれるから、なんて素敵なんだろうと思っていました。

 

でも、毎日となると、そういうわけにもいきません。

 

普通のことでも、仕事があれば楽しかったです。

 

家事でもいいんです。

 

やり方を教えてもらって、チャレンジすることが楽しかった。

 

でも、娘は、またわたしとは興味が違うようです。

 

人に興味があり、人と関わることが大好きなようです。

 

だから、母以外の人がいる場所へ行きたいんですね。

 

そして、人と関わりたい。

 

そう思っているみたいです。

門を閉じよう

 

 

心臓はどうやって疲れてくるかというと、

 

心をパッカパカに開いて、

 

『みんなのことが大好きです。わたしの周りにはいいひとばっかりでトラブルも起こりません。トラブルが起こっても、わたしが上手な言葉で人を癒せます。』

 

『この便利なわたしをご自由にお使いください!』というキャンペーンをやっています。

 

みたいな態度を取っていると、疲れるのだと思います。

 

普通、家にも鍵をかけて、車にも鍵をかけています。

 

掛けてなくて、泥棒が入ったら・・・。強盗が入って襲われたら・・・。

 

ある意味、自己責任。

 

心も同じなのではないかな。

 

ニコニコ、困った人がいれば助け、

 

他人同士のトラブルが起こると、なぜか、『ごめん、ごめん、わたしが〇〇を~してたらからいけないんよー』なんて、

 

人のトラブルまで、自分の責任にして解決していたら、

 

心の隙に泥棒入るー!!

 

心臓を悪くしないためにも、

 

心のドアは、ちゃんと閉めて、

 

入れていいと思った時に、鍵を開ける。

 

一見、オープンマインドな人はステキ。

 

でも、ステキを貫いて心臓に負担をかけるより、ステキじゃない自分でゆとりを持って生きることを選択します。

 

身体の一部分が、極端に疲弊することって、いいことではないと思っています。

 

無理して、腰を痛めたり、無理してうつになったり、

 

『だいじょうぶですから・・・』

 

って、いい顔していても、だいじょうぶではなくて、

 

表面上、いいひとを装ったしわ寄せを身体の一部分がそれを引き受けているだけ。

 

体全体で、分け合って、一部分だけが極端に無理することのないように、

 

そのために、痛みのサインがあるのだと、認識しています。

 

『痛い』と、思ったら、生き方を調整するチャンス。

 

『だいじょうぶで。』と言って、他人の荷物まで持ってあげている場合ではない。

 

まず、自分の機嫌、自分の身体を健やかにしたい。